昭和40年06月02日 朝の御理解
教祖の神様は、信心させていただく者は、一生が修行である・・。一生が修行であるということが有難い。一生が苦労だということになると、大変難儀なことなんですけれども、一生が修行だ、ということは有難い。ちょうど学者が年をとっても、眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞいと仰る。楽しみなんである。何がやっぱり去年よりも今年というように、勉強していくうちに学者が本を読むように、読んで新しい知識を身につけていくことを楽しんであるように。
又はこれが学徳であろうと思う、学徳が身についてくることが、有難いようにです、信心させて頂く者は一生が修行じゃと、言うのはちょうど学者が年をとっても、眼鏡をかけて本を読むようなものでなからなければならない、ということ。そうでしょう。そりゃ一生が一生が苦労て言うたら、じゅつないですわなぁ。何年生きるじゃ分からんけれども、ね、ほんとにこの世に生きておる間は苦労だと、こういうような。
だったらこの世に言わば生きがいというものがなくなる。先は真っ暗である。けれども一生が修行と仰る修行と。なるほど修行だと分からせて頂くところに、信心の喜び楽しみがある。もう一つその修行からです、修行からこの修行を修行と分からず、苦労と思うところにその苦労から、逃れたい逃れたいという気持があって、そしてその苦労から結局、逃れることのできないで、終わってしまわなければならん。
今まで苦労と思っておったことがです、修行と分からせて頂いた所からです、その修行が有難いことになってくる。それにはやはり、私はそのなるほど修行させて頂けばです、修行をさせて頂けばなるほど、学者が本を読むように、ね、今まで知らなかった世界、今まで知らなかった新しい知識というものがです、身についてくるというところの、楽しみ。いわゆる本を読まなきゃおられんのであり。
修行させてもらわなければおられんであり、しかもそこに、喜びを持って感じながら、その修行を、楽しみに取り組んでいけれるという、ね。ここんところのその、思い込みができるために、やはりおかげを受けていかなければいけません。昨夜、お祭りがすんでからでした。久留米の野口さんが、そこへ、おいでに出てみえましてから、楽室に控えておりました。先生おかげを頂いてから、また今晩から主人が出張に出らせていただいております、っち。てから、もうほんとに主人がもう、喜びいっぱい。
また御用ができるぞと。ですから、奥さんであるところの野口さんもですたい、主人だけば働かせちゃすまん。私もなんか、修行させてもらわにゃ、とこう、言うその気持ちが致します、とこういうわけなんである。ね、出張に出るということは、それだけ余分に働かなければならないという意味があるのですよ。ね、まあ、若いわけではない、もう相当、お年をとっておられる、野口さんがです、もう最近その非常にその、余分の収入が、まあ余分の収入があるからですね、
楽しいんだ、有難いんだと、言うてしまえば味気がないけれどもです、ね。それがお役に立つ、御用に立つことができるというところにです、もう、この上ない喜びを、その出張の中に感じておられるのです、ご夫婦が。もうほんとに主人が喜び勇んで、また御用ができるぞ、という気持で、おいでられるというのである。焦点が違うてきた。出張の目指しが違うてきた。働かせていただくという、言わば、目的が違うてきた。そこに私は、この修行のですね。
尊さというものが、あると思うんです。もし、それがなら、働けば働いただけ金が儲かるということだったらです、それはもう、必ずそれが苦労になるだろうと思いますね。いわゆるその、教祖の教えておられる、一生が修行じゃというのが、ね、一生が苦労だと。私今日、ご神前出らせていただいたらですね、信心させていただいておるものが、いつもあの、四十五、四十五という数字をいくつも頂いてですね、四十五と。
そのう、こうやって毎日お参りをさせていただいておる、朝参りをさせてもらうと、こればいつまで続けんならんじゃろうかと、もう信心その、信心修行そのものを、苦労と思うておる人がある。ね、雨の日も風の日も、朝はようから。いつまで、こげなん修行ばせんならんじゃろうかと、口では修行と言いながら、苦労と思うておるから、いつまで、ということである。
これがもうほんとに手足のかなう限り、是がもしできるとするならこげな有難い事はないじゃないか。ね、何時から何時までなんて日にち切る事はいらん。私ほんとに有難いことはすぐあの伝わっていくんだ。夕べあの古賀先生がおかげ頂いてましたが、言う事ですもん、この頃久富繁雄さんが朝参りしておられたそうですね、って言うんです。誰から聞いたか知らんけど、いつの間にかその、伝わっておるわけなんですね。
皆さんもご承知のように実意丁寧な信心をなさっておられるけれども、何とはなしに夜参り的な信心であった。全然朝参りをした事がないと言う訳ではない、たまにはなさっておられた。ところが最近繁雄さん自身が言っておられる事がです、朝参りの本当の有難さって言うのは是だというものを把握された。捕まれたなるほど朝参り朝参り、お道の信心は朝参りからだと言われておる。それなんだそうだなというわけです。
そして古賀先生、夕べはその事をいうんですよ。皆帰ったあとにどんな向こうではちっとよかお取次ぎができよるかと、椛目におった時の信心がちっとはものいうとるじゃろうかと、勿論おかげを頂いておる模様ですけれども、どうもあちらへ行ったらやかましく言い手がないもんじゃけん朝、朝起きが出来ない。私はもうとにかく朝だけは起きて来いともうすぐ寝たっちゃよかけん、朝起きて来いというのが私の生き方なんだ。
そういう例えば難儀の中からです、その朝参りというものが身についてしまうと。特にお道の先生でもするならです、もう朝起きだけはできにゃいかんと。それが初めの間はじゅつなかった。言わば修行ではなくて苦労であったけれども、その苦労のだんだん中身がです焦点が変わってくる。何のために朝起きをしておるのか。夕方であった繁雄さんが毎日お参りをされるのも、信心の有難さがです毎日のお日参りであったろう。
もちろん夜も参って見えるけれども、例えば御造営なら御造営ということの、焦点の為にです、目指しの為に、朝の御祈念がお参りができるようになられた。しかもただ、朝の御祈念と言うても、もう私が、ご神前に出る、遅くても10分、15分前には、もうお広前に座っておられる。そして、その15年ぶりにです、言うなら、お道の信心の、言わば神髄とでも言うか、朝参りからと言われるその朝参りの、有難さがだんだん身についてきたということなんだ。焦点が変わったから。
こればおかげいただかんならんから、という為じゃなかった、今までの信心じゃなくなってきた。野口さんの出張でもそうである。少しでも、余分に収入のおかげを頂かせてもろうて、ね、千載一遇のこの時にです、少しでも、お役に立たせていただきたい、お役に立たせていただきたい、というその、一念がです、確かに、余分な収入があるようなお繰り合わせになってきた。
そのことがです、楽しゅうなってきた。有難うなってきた。こげな修行ならいやこげなこげな苦労なら、なるほど苦労じゃないな修行であるという事が解って来る。しかもそういう修行をさせて頂いておるうちにです、いつの間にかいわゆる学者が眼鏡をかけて、年をとっても本を読むようなものであろうぞいと仰るように、本を読んでいきよるうちにです、はぁこれが学徳というものであろうかと、ね。
今まで知らなかった、新しい知識が身についてくるということが、楽しみなのである。繁雄さんがそう言うておられるように、これが真の信心であろうか、これが真の信心に伴うところの、お徳であろうかと言う様なものを感じられるようになられたら、修行がいよいよ、有難いものになってくる。皆さんほんと信心がです四十五じゃいけませんです。ね、四十五ということは、四十という事は何時もという事でしょう。
五というのは、もう私はもう、業ばかろうてきとるとじゃろう、こげんいつまっでん苦労ばせんならんというあの、業というふうに感じたんです私は。皆さん業ばひっかろうてきとるけん、こげなん苦労ばせんならんのじゃいかんのです。神様がです、ね、おかげば下さりたいばっかり、お徳をつけて下さろうばっかり。してみると打ち寄せてくるところの、難儀も苦労もです、皆そりゃ小金の様に見えるような、感じれれるような信心になってこなければ、言わば修行の楽しみということ。
いや本当の、修行ということにならない、ということ。今日もいっちょ平穏無事でっていうばかりじゃないということ。どのような難儀が、例えば打ち寄せてきましてもです、打ち寄せてくるその、難儀そのものがです寄せくる波も、いわゆる小金なりである。そういう風な頂き方。そういうような思い込み。そこに私は信心のいよいよ有り難いというですね、何と言うんですか、信心はアヘンなりと言った様な言葉で、その信心を言うておる人があります。
参らにゃ気持ん悪かけん参りよると言った様なです、お参りをよし50年続いたとてもです、それではほんなこっちゃない。修行が楽しい、有難いと、それにはお互いがです、焦点がもっともっと、高度なところに、置き換えられなければいけないということがです、まあだいだいお分かりになるでしょう。ね、四十五から、始終修行と、いつもが修行だと、恐らく、死ぬるまでが、修行であろうということが楽しみなんだ。もうこれだけ私が、もうほんとに思うのである。
こうして私御結界の奉仕をさせて頂くと、はぁもう60になったならいっちょ子供に譲って、もうそういう思いがさらさらない。とても譲れる段じゃない。もうそれこそ手足の五体のかなう限り、ここには私はここは私の修行の場である。なぜそういう風に言いきるかというと、いよいよここの御用が奉仕がです、有難うなってきておるという事実があるからなのです。しかもなら朝起きなら朝起きというようなことがです。
ね、いつまで、いくつになったなら、朝ゆっくり寝られるじゃろうか、といったもんじゃなくてです、きちっと、例えば5時の奉仕なら奉仕の時間に、神様が目覚ましのおかげを下さるということがです、有難い瞬間になってしもうて、身についてしもうて、有難いことになってきておるということである。有難いというものの度合いがだんだん違うてきたと。私は金光様の御信心頂いておってもですね、これが一つあの、ほんとの意味合いにおいての、瞬間、ですもんね。有難い、瞬間になってこなければ、お道の信心の値打ちは、分かっておるとは言えないと思う。
ですから、なるほど、そういう気になってですね、おかげを頂いておればできるんです。できるとまたそこには、一つのお試しとでも申しましょうか、ね、例えば古賀先生が椛目ではできとったけれども、あちらでなかなかできない。できないとやっぱその日一日が、どうか、ほんとよいお取次ぎができないと。で心にはこれじゃいかん、これじゃいかん、とこう思って。いわゆるその、ちょっとできないような、事柄がその体の上やら事情の上に起きてくるんです。
そこを私乗り越えさせていただく時が、いよいよ修行じゃないだろうか、とこう思うんですね。なるほどそれは苦労なのだけれども、そこを乗り越えさせていただくというところにです、元気な心がいるのであって、その元気な心をおかげを頂かせていただくうちにです、ね。修行がほんとの意味で血に肉になり、身になっていくことが自分で分かる、食べれば食べただけ、なんか血に肉になっていきよるとが分かるような感じがする。そこまで信心を一つ、高度なものにしていかなければならんと、思うのでございます。 おかげいただかねばなりません。